エンジニアの成長を阻む「現状志向」の壁。その正体とハック方法
はじめに:なぜぼくらは「レガシー」から抜け出せないのか
「今年こそはRustを習得するぞ」とか「インフラをIaC化して効率化するぞ」なんて正月に誓ったのに、気づけば年末。結局、手慣れた既存コードの保守と、温かみのある手動デプロイを続けている……なんてこと、ありませんか?
ぼく自身もそうです。「このコード、可読性が悪いからリファクタリングしてきれいにしたい」と常々思っているのに、いざ日々のタスクに向かうと「まずは動くものを作るのが先決だし……」と自分に言い訳をして、結局いつもの書き方でスパゲッティコードを量産し続けてしまったり。
マネジメントの立場でも同じような悩みがあります。部下に「ただ言われたことをやるだけじゃなく、もっと本質的な改善に目を向けてほしい」と期待を伝えても、返ってくるのは「改善ができました!」という報告はしているけど伝えたコトだけ。「そうじゃないんだよなー」と頭を抱えつつ、彼らが「言われた範囲内」という現状維持から一向に抜け出せず、根本が変わらないことに無力感を感じたり。
成長したい、させたいと思っているのに、なぜか今の場所に留まってしまう。それをどうやって打破するかの話です。なお、本記事は『世界は行動経済学でできている』(著:橋本之克)という本からヒントを得て書いています。
「現状志向バイアス」とは何か
現状志向バイアスとは、シンプルに言うと、「未来よりも目の前の利益を優先し、現状のままでいることを好む心理傾向」のことです。
人間(というより生物としての本能)は、「将来得られる大きな価値」よりも、「今すぐ手に入る利益」や「目の前のわかりやすさ」を過大に評価してしまう性質があります。たとえば、「1年後に1万1000円あげる」と言われるよりも、「今すぐ1万円あげる」と言われた方が魅力的に感じる。冷静に計算すれば前者の方が得なのに、ついつい目の前の「安き」に流れてしまう。これが現状志向バイアスの根幹にあります。
エンジニア的に言えば、リファクタリングをしておけば「半年後の開発効率が劇的に上がる(=将来の大きな利益)」と頭ではわかっていても、「今すぐこの機能追加を終わらせて楽になりたい(=目の前の小さな利益)」という欲求に負けて、根本的な設計の見直しが必要だとわかっているのに、「とりあえず今回は動けばいいや」と、つぎはぎの修正で済ませてしまうようなものです。将来のために時間を投資するよりも、目先の「安き(=慣れた実装)」に流れてしまうわけです。
陥りがちな落とし穴:合理的なフリをした「言い訳」
このバイアスの厄介なところは、本人が「バイアスにかかっている」と気づきにくいことです。特に論理的思考を好むエンジニアは、現状維持を正当化するために、もっともらしい理由を後付けしてしまいがちです。
- 「今は忙しいから、落ち着いたらやる」
- 将来の楽より、今の忙しさを解消することを優先してしまう典型例です。
- 「枯れた技術の方が信頼性が高い」
- 新しい技術に対する「未知への不安」を避けて、使い慣れた技術という「安心感」を優先してしまっている状態です。
- 「バグが出たら面倒だから、触らぬ神に祟りなし」
- リファクタリングによる「将来の快適さ」よりも、万が一バグが出たときの「今の修正の手間」を嫌がり、見て見ぬふりをしている状態です。
これらは一見、もっともらしい判断のように聞こえますが、多くの場合、単に「未来の成果」よりも「現在のコスト回避」を優先しているだけだったりします。現状志向バイアスに囚われていると、変化しないこと自体が最大のリスク(技術的陳腐化)であることに目をつぶってしまうのです。
現状志向バイアスを打破する(自分自身編)
では、どうすればこの重力を振り切れるのか。実は「退路を断つ」ようなリスクを取る方法はあまり良くありません。そもそもリスクを避けたい脳が拒否反応を起こしてしまうからです。
有効なのは、脳の「目の前の利益が好き」という特性を逆手に取ることです。
具体的には、「将来の大きな目標」を「今すぐ手に入る小さな利益」になるまでブレイクダウンすることです。
例えば「プロジェクト全体の技術的負債を解消する」という遠い目標だと、脳はそれを「今の利益」とは認識できず、果てしない作業に思えて尻込みしてしまいます。 だから「今日はこのクラスの、このメソッドの変数名だけ変える」「不要なコメントを3行だけ消す」といったレベルまで目標を細かく刻みます。
こうすることで、「ここがきれいになった!」という小さな達成感(利益)が、将来ではなく「目の前」に手に入ることになります。脳にとっては「半年後の完璧なアーキテクチャ」より「今すぐ得られる小さな改善の快感」の方がご馳走なんです。これを繰り返していくことが、結果として大きな改善へ到達する一番の近道になります。
現状志向バイアスを打破する(マネジメント編)
マネジメント視点で部下やチームのバイアスを解く場合も、基本的には「自分自身編」と同じアプローチが有効です。 部下が動かないのは、彼らが怠慢だからではなく、提示された目標が「遠すぎて利益に見えない」からです。
だからマネージャーの役割は、「大きな目標」を部下が「目の前の利益」と感じられるサイズまで一緒に噛み砕いてあげることです。
いきなり「コード品質を上げろ」と指示しても、部下にとっては「面倒な作業(コスト)」にしか見えません。 そうではなく、「まずはこの関数のネーミングだけ変えてみよう。それだけで読みやすさが全然違うから」と、すぐに手が届く「小さな利益」になるまでタスクを分解し、一緒にマイルストーンを引いてあげます。
そしてさらに重要なのが、部下がそれを実行したときに、得られた「利益」を明確に提示(フィードバック)してあげることです。
「ここを直してくれたおかげで、レビューがすごく楽になったよ」「この修正、すごく読みやすいね」と、その小さな行動が確実に「利益(価値あること)」であることを認めてあげる。 そうやって「目の前の小さな利益」を他者の視点から確定させてあげることで、部下の脳は「変化することは良いことだ(得だ)」と学習し、自然と次のステップへ進めるようになります。
まとめ
エンジニアの成長を阻む「現状志向バイアス」について、ここまで見てきました。
ぼくらが変化できないのは、決して怠慢だからではなく、「目先の利益を優先する」という本能が働いているせいです。もし自分や部下が「今のままでいい理由」を探し始めたら、それはバイアスの落とし穴にハマっている合図かもしれません。
これを打破するために必要なのは、意志力で無理やり頑張ることではなく、大きな目標を細かく刻んで、脳に「目の前の利益」を与え続ける仕組みを作ることです。
自分やチームが停滞していると感じたとき、技術不足や能力不足を疑う前に、この「現状志向バイアス」が働いていないか疑ってみると、今までとは違った解決策が見えてくるかもしれません。人間の脳の仕組みとは、実に興味深いものです。






